「コミュニケーションは、要らない」を読んで

映画監督である押井守氏の「コミュニケーションは、要らない」という本を読んで、ちょっと考えたい部分が出てきました。部分的な抜粋なので前後の文脈との繋がりが分かりませんが、なるべく意味が分かるよう簡潔にまとめました。

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「真善美」という言葉がある。認識上の美、倫理上の善、審美上の美のことだ。真というのはロジック、善というのはモラルと言い換えることが出来る。

真善美の起源は古代ギリシャまで遡るが、昔の人間はなぜそういったのか?それが普遍性に到達する唯一の道だったからだ。そこには「正しいものは美しい」という信念が込められている。その思想は、日本にも文明開化の証として取り入れられた。

でも実は、日本人にはあまりピンときていなかったのではないかという気がする。やはり、美しければ良いのだとどこかで思っていたのではないか。そのためなら、真と善は置き去りにしても良いのだと。

ドイツも同じように真善美を目指さなかった。だが、あの制服や旗のデザインというのは確かに美しい。それは、アニメーションのデザインの宝庫であるし、僕だって散々借用している。美に偏重しているから人を惹きつけられるのだ。でも、当たり前だが、どんなに美しくてもそれだけでは戦争には勝てない。アメリカ軍の装備には敵わないのが現実なのだ。兵器が美しいことと、真面目に戦争をすること、ロジックを追求するということは別物でなければならないのだ。ましてや、負けた側が美しく見えるような、滅びの美学なんて諸悪の根源だ。

日本人は、これから、一から順番にものを考えられる論理的思考を獲得していかなければならない。それは努力で獲得していくものだ。


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日本では様々な立場・肩書を持つ自分を一元化したがる。

クリエイターとして発言する、文化人として発言する、一納税者として発言する、本来なら違っていて当たり前の、矛盾して然るべきところも一貫していないと叩かれる。

福島県に視察に行って「死の町」という形容をしてクビになった大臣がいたが、あの発言にしても当事者が言った言葉だったら問題なかったはずだ。あるいは、文学者や文化人だったとしても不問だろう。なのに、それを言ったのが政治家だからという理由でメディアも国民も一斉にバッシングする。

確かに不用意な発言ではあったかもしれない。だが、なぜ、たかがそんな問題で大臣を辞めなければならないのか?一個人として許せない、という気持ちは分かる。けれど、それと政治は別に考えるべきだろう。

一瞬一瞬の感情に流され、目先のレベルでしか物事が判断されていないからこういうことが当たり前のように許容されている。情緒に訴えかけることで論理的な思考を麻痺させ、正しいとか正しくないとか言い合っているコミュニケーションをはかったつもりになり、その判断を積み重ねで、今の日本になってしまった。そろそろ我々はそれをしっかりと自覚すべきだ。


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①について

正直まだ考えがまとまっていません。(じゃあ書くなよって話なのですが…笑)

ただ、どこか引っ掛かり、どこかが気になるんです。どこだ。どこだ。分からない…
(何か感じた人、コメントやメッセくれたら嬉しいです)

 

②について

この「死の町発言問題」の報道はまだ記憶に新しいです。

僕自身は、ここで押井氏が問題視しているように、鉢呂元経済産業大臣の発言を「不謹慎」だと直感的に批判はできず、その発言の叩かれようにとても違和感を感じていました。


もしこの発言の真意が、まるで福島をあざ笑うかのようなものであったとしたなら訴求されて然るべきであると考えます。なぜなら、福島原発の問題を引き起こしたのは、決して不運な自然災害ではなく、歴史を遡ったときに原発を日本に導入することにした中央政府の責任であり、それに何の疑問も感じず甘んじて受け入れてきた我々国民の責任であり、批判を煽っているメディアの責任であると思うからです。(このことについては多方面で議論がなされていますが、あくまでも僕個人としての意見です。)しかし、その発言の真意はおそらく違うものでしょう。かつて引き起こされたチェルノブイリ原発事故になぞらえ、更に自らの身を引き締める想いから出た言葉ではないかと、僕が数々の報道を見て感じたことです。


ではなぜあそこまで叩かれることになったのか、それは当事者に対して当事者ではない人々が過剰な感情移入をしたからではないでしょうか。


「福島の人の気持を考えろ!不謹慎だ!」

という人がいるとしたら、僕なら

「あなたは福島の人ではないでしょう。

と言いたいです。


僕は友達からよく相談を受けるたちなのですが、話を聞いていて「うん、そうだね。分かるよ。」と返したところ、相手から「ほんとに分かるの?自分は経験してないのに?」と言われたことがあります。この類の話はよくあると思うのですが、要は自分が経験してもいないくせに分かったふりで感情移入をし変に当事者意識を抱くことは、認識の大幅な相違を引き起こすことになる為に、あまり褒められることではないということです。


まとめると、「不謹慎」や「不適切」、逆に「適切」であるかどうかという判断は、部外者が直感的に下すべきではないと感じます。冷静に状況把握をした上で、周囲ではなく自分の考えを確立すること。

押井氏の言葉を借りるなら、一瞬一瞬の感情に流され、目先のレベルでしか物事が判断されていない状態は、個々の対人関係をはじめ社会という大きなものを捉えるときにも大変危険です。人間は理性を持った生き物ですから、感情でしか物事を捉えられなくなり、物事の背後にある事象を論理的に考えられなくなった瞬間、その人は”人”でなくなるとさえ僕は思っています。



(ひと言)

読書感想文的な記事の方が書きやすい、って思った。。笑

イケダハヤトさんの記事を読んで、ブログを書くときに感じていた違和感が吹き飛んだので、今度からは感じたことをすらっと書くようにします。ライティングは練習なので、その程度で読んでくれたらと思います。。。

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